フロリダの学会

イギリスの大学院にずっと留学していたので、今までイギリスには数えきれないくらい足を運んでいるが、意外と他の英語圏の国々へは行く機会が少なかった。日本の大学で仕事を始める前は、例えばアメリカへは2回しか行ったことがなかったし(しかもハワイととニューヨーク)、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドへは一度も行ったことがなかった。(その後、ニュージーランドへは大学の仕事で2回訪問した。)

しかし、今年は偶然にもアメリカへ行く機会が多く、急にアメリカが身近な存在になった。3月には学会でアトランタへ行き、そして今回は別の学会でフロリダへやってきた。名古屋からはデトロイトを経由してオーランドに到着、そこから車で約1時間のデイトナビーチが今回の学会の会場だ。

都会でやや殺伐とした雰囲気のアトランタに比べるとフロリダは南国のような雰囲気で、人々もどこかのんびりしている。イギリスと同じ英語圏ということでもちろん大きな不便はないけれども、それでもあまり公共交通機関が発達していなくて、車がないとどこへ行くにもタクシーを乗らないと行けないのには苦労した。

学会は、これまでは自分の専門分野である応用言語学の世界で中心的なものばかり参加してきたが、今回はAI(人工知能)学会(その中の言語に関するグループ)ということで、いつもと違った緊張感があった。

学会は分野が違えば、会の進め方、参加者の雰囲気などずいぶんと違うものだ。どのくらいの大きさの学会かさえ知らずに参加したが、想像以上に小規模でこじんまりしていた。主催者に聞くと、せいぜい150人くらいの参加者、ということだった。なんとなく「大きい」学会の方が価値が高いような気がするかもしれないが、実際には人ばかり多くてあまり得るところがない(ことが多い)。理想的には「小規模」で「質の高い」学会が参加する価値が高い。いろいろ知りあうこともできて、深い話のできることが多いのだ。今回の学会は、まさにその条件を満たしていた。

研究上の成果に加えて、今回はいろいろ考えるところ(そして反省するところ)が多いかった。日常を離れてリフレクティブな気分になって自分を見つめ直すことができるのも海外に行く(おそらく一番)重要な価値だと思う。

海外(そしてそこでの学会)では一個人に戻れる。これは必ずしも気持ちのいい経験ではない。

学生時代は、ただの学生でも学会で発表すると一人の研究者として扱ってもらえるのが嬉しかった。そこでは大学に戻った時のステータスや世間的な有名度はあまり重要ではない。ただ発表の出来がその場での評価を決める。

その後、日本の大学で働きはじめると自分の中で小さなしかし重要な変化が生じる。(研究上大した成果があるわけではないが)そのスモールワールドの中で、少し評価されたりすると、心のどこかで少し偉くなったような錯覚が生まれてしまうのだ。もちろんポジティブ・フィードバックは大事だが、問題はまだ十分な力があるわけでもないのに「護り」に入ってしまうことだ。

身の回りの直接的な環境から強い影響を受けてしまうのは当然だから、ある程度は仕方がないかもしれない。だからこそ時々、こうやって、もっと広い世界の基準にさらされて、その都度自分の今の力との差を感じる必要があるのではないかと思う。

なんとなくこの1年くらい成長したように感じていたのは、ただ単純に狭い世界に身を置いていることによる錯覚で、広い世界との距離はほとんど縮まっていないのではないか、と思う。

そう感じてしまった理由はいろいろある。

まず改めて「英語力」の足りなさを感じた。日本では英語で授業もしているし、外国人の先生とも頻繁に話しているので、普段特に感じることはないが、英語圏で行われるプロフェッショナルな場に来てみると、まだまだ言葉に関して不自由が多い。

これはおそらく「言葉」の問題だけではなくて、言いたいことを思い切っていい始める、そういう会話に対する積極的な態度というか勇気みたいなものが欠けている、という問題もある。それは部分的には性格の問題でもあるけれど、でもそうやって腰が引ける原因のひとつに自分の英語の状態(そしてそれに対する自信)もあるだろう。つまり普段から英語を磨いて、高いレベルで常に使える状態にしているか。理想的には、日常の中で英語を使ってレベルの高い議論ができていれば言う事はないが、日本にいるとなかなか難しい。そうであれば、自分なりに普段から何かセルフ・スタディをして鍛えておく必要がある。普段から磨き続けることで、自然と自信もついてくる。むしろそのことが、「態度」という点では大事かもしれない。

もうひとつは、やはり研究に対する真剣さが欠けていたのではないか。もちろんこれまで意識的に手を抜いてきたというわけではないが、常に100%の状態を目指してきたかと言うと自信がない。

研究に100%注力できない理由はたくさんある。大学では研究以外に、授業、学内業務などいろいろと忙しい。学生の時のようにすべての時間を研究に使うということは不可能だ。だから「100%」といのはもちろん時間とエネルギーの問題ではない。

そうではなくて、研究に対する純粋な好奇心が欠けていたのではないかと思う。学生時代が楽しかったのは、最終的な研究結果に対する探究心に加えて、研究のプロセスも楽しんでいた。データを集めている時も、分析している時も、そのプロセスにいろいろな発見がある。もちろんきちっと論文にまとめて初めて研究というのは評価されるわけだが、もっと個人的なレベルでは、その過程で論文に載らないようなたくさんの小さな気づきがある。そこまで楽しめなければ、研究の90%は苦しみではないかと思う。

今回の学会は異分野ということもあって、知らないことばかりだったが、もっと知りたいという欲求をかきたてられた。そのためにはもっと勉強する必要もあるし、データも分析しないといけない。「発見」に到るまでの仕込みにはもっと多くの時間とエネルギーがかかる。でもそのプロセスも楽しむことで、その一つ一つのプロセスも自分の一部にすることができるのではないかと思う。