宮本輝紀先生の思い出

自分はつくづく「先生」に恵まれてきたと思う。そのことがひょっとしたら「学校」という場に対するポジティブな感情に結びつき、また今、曲がりなりにも「学校の先生」と呼ばれる立場にいる一番の原因かもしれない。

これまでお世話になったたくさんの先生の中で、もちろん順番は付けられないが、おそらく最も憧れ、また一番影響を受けた先生は、洛南高校吹奏楽部前顧問の宮本輝紀先生だと思う。今現在の自分は生まれてから35年、いろいろな経験、出会ったすべての人たちとのとの交流の結果ではあるけれど、おそらく自分が「この人の影響をすごく受けている」と明確に意識した一番最初の人は宮本先生だと思う。今ではもう楽器を演奏することもないし、音楽とは全く関係のない仕事をしているけれど、今の自分の「原型」を形作っているのは、間違いなく宮本DNAだと思う。

中学生の時、洛南の演奏を聴いた瞬間のことは(「ローマの松」の冒頭、金管がフルートに持ち替え、ホルンがベルアップしてファンファーレを吹く場面)、20年以上経った今でも、昨日のことのように思い出される。大げさではなくそれくらい強烈な印象だった。それから洛南の吹奏楽部に憧れ、無事入れていただき、そこで様々な経験をさせてもらった。もしそれが欠けた人生は、全く想像することもできない。

卒業してからも、常に洛南の吹奏楽部と宮本先生は、自分にとって誇りであり、楽しみであり、また憧れであり続けた。卒業してから、その後数年は毎年全国大会のお手伝いを頼まれ、また東京での練習場所の確保に奔走した。宮本先生の代わりに全国大会前日の説明会に参加したこともあった。そうやって洛南の吹奏楽と、そして宮本先生と関わり続けられたことは本当に幸せだった。今振り返ってみると、先生のお手伝いとか、ましてや頼まれて断れなかったとか、そんなことではなく、宮本洛南のDNAが「勝手に」理屈なく自分を突き動かしていたように思う。

そんな宮本先生が9月1日に亡くなられた。あまりに突然で、信じることができなかった。実は今でもまだうまく理解することができない。朝、目を覚ますと、悪い夢を見ていたんじゃないか、まだ生きておられるのではないかという気持ちになる。タイミングの悪い(?)ことに、亡くなられた日は学会発表でイギリスに出発する飛行機に乗る前日だった。しかも発表の準備もまだまだ残っていて、とてもお通夜に行くことはできなかった。(この文章もイギリスのロンドンで書いている。しかもまだ発表準備は終わっていない・・・。)なんとかしてお別れに京都まで行けないか悩んだ。そうしないことには宮本先生が亡くなられた事実を、うまく自分の中に昇華できないのではないかと思った。案の定、今でもまだ十分には受け入れることができないでいる。

この数日間、ここしばらくは聴いていたなかった洛南の演奏を毎日聴いている。もちろん、「華麗なる舞曲」(宮本先生は「ダンス・フォラトラ」というオリジナルのタイトルを好まれていた)は吹奏楽コンクール史に残る名演だと思う(自分もそのメンバーに入れていただいたことはこの上ない誇りだ)。もう既に100回以上聴いたはずだけれど、今聴いても鳥肌が立つ。

でも一番心動かされたのは、おそらく一番たくさん演奏した「ジョージア・オン・マイ・マインド」だった。何年ぶりだろうか、聴いたときは涙が止まらなかった。僕も、洛南に入る前、洛南にいる間、そして卒業してからも、これくらい立場を変え、何度も触れた曲は他にないと思う。おそらく、最も多くの洛南吹奏楽部員が演奏した曲ではないかと思う。宮本先生を介して、時間を越えて共有できる、洛南吹奏楽部OBの財産だと思う。情熱的で、激しく、またやさしくて、これくらい洛南宮本サウンドを体現した曲はないのでないか。

実は、いつも京都に帰るたびに宮本先生のことを思い出していた。会いたい気持ちがありながら、どこか畏れ多いような、高校時代に戻って怒られてしまうよう気がして、遠慮してしまっていた。そうこうグズグズしているうちに亡くなられてしまった。本当に、本当に、本当に残念だ。

でもその一方で、宮本先生はずっと自分の心の中では生き続けるような気がする。今でも先生との思い出は、驚くほど一つ一つ鮮明に残っている。宮本先生と過ごした思い出があるから、数日後に迫った発表もなんとかうまく乗り越えられるような気がする。

追記
米米CLUBオリタノボッタさんのブログを発見した。
http://ameblo.jp/oritanobotta/entry-10638599195.html
「お会いすると....いつも笑顔で、両手で握手して下さる」本当にそうだったと思う。競演された「青春の輝き」は本当に素晴らしい演奏だ。これを聴いてこの曲が大好きになった。