本とのつきあい方

2005年6月23日(過去の日記)

「大分御集めになりましたね」と美禰子が云う。「先生これだけみんな御読みになったですか」と最後に三四郎が聞いた。
三四郎は実際参考の為め、この事実を確かめて置く必要があったと見える。「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」与次郎は頭を掻いている。

三四郎 (岩波文庫)

三四郎 (岩波文庫)


僕は大学の専門が英文学だったというのもあるかもしれないが、どの先生のお部屋にも本があふれているのが印象的だった。それほど大きい部屋ではないが、その中に本がうず高く積まれている。「大学の先生=本の山」という印象は、イギリスに来てからも全く変わらない。いつしか、「たくさんの専門書を持つこと」が大学の先生の必須条件だと思うようになった。

僕がイギリスでマスターの勉強を始めて以来、常に続けてきたことは、自分の専門分野に必要な本は常に買い集めていく、ということだった。

本棚が次第に埋まっていくのは壮観ではあるけれど、決して単なる趣味で本を集めているのではない。なによりもそれが(ほとんど唯一の)自分の商売道具だからだ。野球選手ならグローブやバットにこだわるだろうし、作家なら万年筆や原稿用紙(最近ならパソコンだろうか)を大事にする。結局それと同じことだと思う。

広田先生の引越しを手伝いに来た三四郎が本の山を見て「これだけみんな御読みになったんですか」と聞く場面は、研究を生業とする者と一般の人の「本」に対する考え方の違いを表していて興味深い。

通常、本というのは頭から最後まで読み通すものと思われいるかもしれない。もしそうでなければ、わざわざ高いお金を払うに値しない、というように。

ところが、研究するための本とはあくまで「資料」なのだ。頭から最後まで読み通すことなどほとんどない。そのある一部分を使うだけということがほとんどだし、中には読まない本もたくさんある。「読まない」というより、正確には今のところ読まないで置いておく、ということがよくある。

まずは「本は頭から最後まで読みとおさなければならないもの」という固定観念を捨ててしまうことが大事だ。その点ではできるだけエコノミカルに、できるだけ少ない労力で本のエッセンスをつかむことに集中しなければならない。

第2に、本は手元になければならない。いつでも何かアイデアが浮かんで、必要になった時即座にアクセスできる環境が不可欠だ。明日になってから図書館に行って、というのでは確実に手遅れになる。手元にあれば、自分が必要になった時に、本の方からこちらに話しかけてくるような瞬間がある。その機会を増やすためには良質の本をできるだけ自分の傍に置いておかなければならない。

本は高いから、あれもこれもいちいち買ってなんかおれない、と思われるかもしれない。でもそういう人でも他のことにはしっかりお金を使っているものだと思う。要は優先順位の問題で、逆に言えば他のことよりも本の購入を優先させる気がしなければ、それだけ本気ではない、と言えるかもしれない。