英語モデルを求めて

2005年7月4日(過去の日記)
「英語を話す」と一言で言っても、実に様々な英語が存在している。

最も一般的には、アメリカ英語か、あるいはイギリス英語、という風にどこの国の英語を学ぶかという問題がある。僕自身はイギリスという国が好きで、わりと長い間イギリスに住んでいるので、もちろんイギリス英語にシンパシーを感じるし、これまでも「イギリス人のような英語を話したい」と漠然と感じてきたように思う。

ただその一方で、どんなに憧れようとも決してイギリス人が使っている英語と全く同じ意味では英語を使えるようにはならないのだ、ということも強く感じてきた。

例えば、長いことイギリスにいて未だに戸惑うことのひとつに、イギリス人の若者が使う英語がわかりにくい、ということがある。彼(女)らの発音、アクセントがいわゆる学校英語の範疇とずいぶん異なっているということが一つだし、もちろん単語や表現がずいぶん違う(いわゆるスラング)ということもある。もちろん長い間住んでいることで、少しづつそうした隙間を埋めていくことができるわけだけれど、その一方で、あまりに多様で、ちょっとやそっとではうまらないほどの隙間でもある。

最近の社会言語学のトレンドとして「World Englishes」という概念がある。「Englishes」と複数形になっているところがミソで、つまり英語のモデルとは決して「アメリカ英語」とか「イギリス英語」とかいうふうに単一ではなくて、話す国ごと、さらに言えば話す人の数だけ種類がある、ということだ。

つまり英語のネイティブ・モデルを追いかけている限り、外国人はいつまでたっても「英語使用」という土俵の上では劣等者になってしまう。「イギリス人が話すように英語を話そう」とすれば、とうぜんイギリス人に常にイニシアティブがある。それよりも英語をあくまで自分の意思を伝えるための道具として捉えて、少しくらいスタンダードから外れた発音、文法であっても気にすることはない、ということが世界の常識になりつつある。

そういうわけで最近は、イギリス人がどのように英語を話すかということよりも、むしろ外国人がどのように英語を話すか、ということにより感心がある。例えば、ネイティブのようにスラスラよどみなく話せなくとも、また発音が英語らしくなくとも、こちらがうっとりするほど見事な英語を使っている人に時々お目にかかる。

例えば先日、アフリカの女性として初めてノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんがBBCに出演して話しているのを見た。彼女の英語は明らかにアフリカ人特有の訛りがあったし、ネイティブのようなスピードでも話していなかったが、一つ一つの発音が明瞭で、しっかりとフォーマルな英語を使い、そして何よりも堂々としていた。

イギリス人の若者の英語は、だらしなく感じてどうも好きになれない。相手の言っていることがわかることは大事だけれど、少なくとも同じように話したいとは思わない。

僕は、外国語であるにもかかわらず堂々と英語を話している人に特に共感を覚える。「堂々と」話すためにはまず何よりも、自分の話す「内容」に自信を持っていること、そして次に自分の英語に対して自信を持つこと、その2点が満たされてれなければならないと思う。

もちろん自分の英語を磨く努力は続けていかなればならない。そのことが自分の自信にもつながるだろう。その一方で、案外英語学習以前に英語上達の鍵があるようにも思う。