PhDを「生きる」

2004年10月23日(過去の日記)
黒澤明の初期の名作、『生きる』を見た。

生きる [DVD]

生きる [DVD]

家の近所にあるCD・DVDショップで一週間ほど前に買ったまま見る時間がなかったのを、やっと今日になって見ることができた。

とても有名な作品なので詳しい説明はしないが、30年以上もの間、市役所での中で「死んだように」大人しく働いてきた主人公が胃がんで余命半年と知ったことで、残された時間を公園の設置に尽力する、というストーリーだ。

何を行なうにも「コンセンサス」を必要として一向に行動に移さない「役所」の性質を、皆が同じように行動する日本人の大衆気質に例え、その中で個人主義を発揮して奮闘する渡辺課長の姿を、戦後あらゆる分野で現われた「ヒーロー」に例える見方ももちろんできる。

だが、最もオーソドックスな見方は、「死」を意識して初めて自分の生き方を考えた主人公の心理的な変化だろう。

さらに興味深いのは、そのことに感動し、自分たちもこれからは「彼」のように生きよう、と考えた市役所の同僚たちも、翌日にはその誓いをすっかり忘れてしまって平凡な日常に戻ってしまっていることだ。おそらく人間というのは「自分に」その時期が来るまでは、本当の意味で「わかる」時期にはならないものなのだろう。

僕自身も、もちろん人のことは言えない。

「今」の段階で「自分の死」について、それが、自分の生き方を心底考える機会になる、と理解していても、本当に真剣に考えることなどできない。現実に自分の考える範囲に納まるのは「PhDとしての人生」くらいだと思う。(それが終わった後、どこにいるかなんて、今の自分からは全く想像がつかない。)

今日リサーチ学生の部屋でパソコンを使って調べものをしながら、隣に座っていたパキスタンからの留学生と話をした。彼女は今年でPhD3年目になるが、その話の中で、最初の時期を本当に無駄にした、と悔やんでいた。

「3年目」というとPhDとしては後半戦だ。後になればなるほど、残された時間に対して「必要なこと」のあまりの多さに気づかされるのだろう。もし最初からもっと計画的にやっていればよかった、と考えても過ぎ去った時間は戻ってこない、そのことを本当に悔しがっていた。

たかだか3−4年だけでも、先々まで見越して行動する、というのは難しいのだと思う。ましてや「若い」時期に何十年も先にやって来る(と考えられる)「死」について考えられるはずもない。多くの場合は、そのタイムリミットの間近になって初めて「時間」の経過のあまりの速さを実感し、そのことに気づかなかった過去の自分を悔やむのだ。

それでは、自分自身(もちろん「PhDとしての人生について」だが)はどうか。

PhDの2年目が始まったばかりの今現在は3−4年のプロセスのまだ前半戦と言える。平均寿命に対する、自分の今の年齢とよく似た段階だ。これまでの経過が早いか、遅いか、よくわからない。3年で終わるのか、4年、あるいはそれ以上かかるのか、正直なところそれさえよくわからない。(ちなみに平均的には「4年」で修了するのが一般的だ。「3年」で終わった、という話は、残念ながら聞いたことがない)

おそらく先生から見れば、他の生徒と比べることで、何らかの判断ができるかもしれないが、残念ながら当事者は比べる対象を持たないし、自分のことなど客観的、かつ冷静に判断することなどできない。

はっきりと「理解」できないならばせめて、常に「終わり」の時期を「感じ」ながらやって行きたい、と思う。

もちろん完全に思い描くことなどはできないが、それでも「今」と「終着点」とのバランスを考えて時々イメージの修正を加えながら進めて行きたい。そうすれば、終着点が近づいた時の「ショック」を少しは和らげることができるのではないか。