「感情」を支配する!

2003年5月1日(過去の日記)

おそらく大学の頃からだと思いますが、如何にして自分の「感情」をコントロールするか、ということが自分の中であらゆる側面において最重要課題となってきたように思います。例えば、なんらかの試験勉強をしなければならない場合、どういった計画・方法で勉強を進めていくかという事も大事ですが、それ以上にその期間中どうやって自分の精神状態を高い位置に保っていけるか、ということの方がより重要だと考えるようになりました。

これはなにも精神錯乱したような極端な状態のことを言っているのではなく、日々生活しているうえでどうしても出てきてしまう「気分のムラ」をどのように処理するかという問題です。今日は気分が乗っているからはかどった、今日は嫌なことがあったから全然集中できなかったということが常に起こりますが、その中でどうやって自分の気持ちを勉強に集中できるか腐心するということです。逆に言えば、常に集中できる状態を創り出せれば、どうやって勉強していくかということは大した問題ではないと言えます。このことは、もちろん会社勤めや学校の授業の中でも大事でしょうが、自分で全部取り仕切らなければならないこと(例えば資格試験の勉強や論文の作成など)においては特に重要なことではないかと思います。

こんなことを意識しだしたのは、もちろん自分自身がしばしば一時的な感情に振り回され貴重な時間を無駄にしてしまったと痛感することが本当に多かったからです(残念ながら未だにありますが)。例えば、朝早く起きて勉強する計画を立てても実際には眠くて起きれない、嫌なことがあったためにその日一日勉強できない、そういうことが本当にたくさんあって、そのたびごとの後悔が余計に落ち込ませたりしました。

また特に困ったことが起こらなくても、最初の頃のやる気は次第に低下していくものです。誰もが4月には何らかの自己学習計画を立てながら夏前にはそのほとんどがきれいさっぱり消え去ってしまいます。もし、常に最初の高揚した状態を、多少の浮き沈みはあっても、キープすることができれば、勉強自体も楽しんで進めていくことができるでしょう。

おそらくそのための具体的な方法論は多々あると思いますが、それ以前にまず大事なことは、「感情は決して自分でコントロールできないものではない」と認識することだと思います。「人間は感情の奴隷である」とは昔から言われますが、「感情」が外的要因(つまり、運命)ではなく、自分の中で生まれるもの(内的要因)である以上、ある程度は自分で調節することができるものであるはずです。

例えば雪が降ったときに、雪国で生きる人は、生活の不便さを思いマイナスの感情を抱くかもしれませんが、雪を見たことがない南国の人ならその美しさに興奮するかもしれません。つまり、「雪」という(外的)現象がプラス(あるいはマイナス)の感情を直接作り出すのではなく、あくまでその現象に接した「こころ」が感情を作り出すのです。すべては自分の考えひとつであると言えます。

このことに関して、次の公理は極めて重要です。

大前提:私は自分の思考をコントロールできる。
小前提:私の感情は私の思考から生まれる。
結論:私は自分の感情をコントロールすることができる。

自分のための人生―“自分の考え”はどこへいった!

自分のための人生―“自分の考え”はどこへいった!

つまり、私たちは空を飛ぶことも、将来の夢も、過去の後悔も、あらゆること考える(想像する)ことができます。一方、雪の例で明らかなように、ある現象をどのように考えるか、ということがあらゆる感情を作り出します。そうだとすれば、思考同様、感情も結局はコントロールすることができるはずです。よくよく考えてみれば、これが自明であるのに、私たちはしばしば気付かないか、あるいはすぐに忘れてしまっているのです。

大事なことは、習慣化するまでは、「意識的」に自分の感情をコントロールするように努めることでしょう。人間が「無意識」に感情に流されてしまう生き物である以上は、自分のものとなるまでは「意識的」に感情を支配するように努めるしかありません。そのときに、「感情はコントロールできるんだ」という真理は重要な基盤となります。究極的には、どんなことでも「楽しい」と感じられれば、こんなに素晴らしい人生はないでしょう。

僕自身も、知らず知らずのうちに将来の不安、過去の後悔が現われてきて、ネガティブな思考そして感情に侵されていることがよくあります。しかし、落ち込んだところで事態が少しでも良くなるわけではないということに気付いたとき、潮が引いていくようにスッと楽になります。つまり「今を生きる」ことがすべてなのです。結局のところ、「感情」を支配できるか否かが、(少し大げさに言えば)自分にとっては生きていくうえでのカギだと思っています。