火曜日が終わって・・・

火曜日に大変な(かつ自分でも力の入れている)授業があるので、火曜日が終わると正直一週間の大半が終わったような気がしてほっとする。月曜日、ほとんど一日をかけて準備し、火曜日も朝から準備をしているので、その間はあんまり他のことをする気持ちになれない。もう少し要領よくやって研究に時間をかけたいところだけど、まだまだ授業経験が足りないので、時間をしっかりかけて、うまくいかなかったところは改善して、経験を蓄積していいかなければいかない時期だと思っている。

それでも、他の授業はわりと簡単にすませているものもあるので、水曜日の午後から木曜日にかけては研究活動にそこそこ時間をかけられる。とりあえず今週は今月末に迫った学会の研究発表の要旨を書く予定だ。研究のための時間が取れることが判明すると嬉しくなってくる。

ところで来月最初にある東京での学会のついでにイギリスの大学院卒業生の夕食会を企画したらたくさんの人から出席の連絡があり、良い意味で期待が裏切られた。こちらも楽しみ。

授業準備

先週末風邪を引いてしまい、週末は予定していた大阪でのセミナーをキャンセルしてゆっくりしていた。その甲斐あって、今日は朝起きたらずいぶんと回復しているのが感じられてほっとした。

月曜日は授業がないが、火曜日に力を入れている授業が二つあるので、いつも準備だけで一日が終わってしまう。特に先週はゼミ面談やら、科研の申請書やら、挙げ句の果てに風邪を引いてしまったせいで、授業のフィードバックや小テストなどの採点、整理が手つかずで、その分余計に忙しかった。

そのうちの一つの授業では毎回授業の最後に内容の確認テストとともに授業の感想を書いてもらっている。最初の頃はかなり厳しいコメントも多かったが、毎回できるだけ改善して行った結果、最近はポジティブなものが多くなった。(ただ学生の方が評価を気にしだし始めたて良いことしか書かなくなっただけかもしれないが。)

毎回フィードバックを書いてもらうのは、大変ではあるが、本当に参考になる。もちろん授業をやりながら、彼らの反応から、よかった悪かったということはかなりわかるものだけれど、実際に書いてもらうとまた違った角度から貴重な情報が得られる。それをまた授業に反映させるのは、また準備が大変にはなるが楽しい作業だ。

ゼミ選考

ずっと日記を更新していないことが気になっていたけれど、新しい大学に移り、夏はドイツでの学会発表があり、となかなか落ち着いて書く気持ちになれなかった。久しぶりに見てみると、なんとすでに半年が経ち、新任校では何も書いていないことに驚いた。半期が終わり、秋学期も数週間が経過して落ち着いたところなので、これからできるだけ記録を残して行きたいと思う。

先週は科研の大学内締め切りがあり、書類の仕上げに忙しかったが、そのほかに来年から始まるゼミの面談があった。月曜日から風邪をひいて、体調を崩していて正直なところつらかったけれど、面談を先に延ばすわけにもいかないので予定通り行った。

今回が初めてのことなので、どのくらいの人が第1希望で応募してくれるのか楽しみでもあり心配でもあったが、蓋を開けてみると10名の定員に対して22名の応募があった。他のゼミのことはわからないが、多い方だということで正直なところ嬉しかった。

ゼミの選抜は、ほとんどのゼミが成績(GPAの平均値)で決めているが、まだ大学に来たばかりで応募したした人がどんな人かもわからないので、面談することにした。中には冷やかし半分の人もいるのではないかと思ったけれど、全員が真剣で、良い意味で期待を裏切られた。と同時に、半分の人は断らないといけないことに申し訳ない気持ちになった。

ただその中でも、志望理由が、ただゼミの内容がおもしろそうや役に立ちそうというだけでなく、自分がこれまで疑問に思っていたことと大いに関連していること、自分の将来に仕事にどのようにつながっていくか、具体的にかつ説得力を持って説明できる人もいて、そのあたりの説明がきちっとできたかどうかを大いに考慮して選んだ。面談前は、断る方向で考えていたが、面談内容があまりによく受け入れることにしたケースもあった。その結果、必ずしも成績が良いということが合格に結びつかなくなったけど、そういう選考をしているゼミがあってもいいのではないかと思う。

厳しく選んだ以上は、こちらもしっかりと準備して、期待に応えられるようにしないといけない。その点でも、有意義なゼミの選考になった。

卒業

昨日は現勤務校での卒業式に出席した。2月以降数えるほどしか大学に行かなかったので、これが自分にとっても最後の出校という感覚が、当日の朝になっても持てなかった。公式には3月31日までの在籍になるが、研究室はその日のうちに引き払い、鍵やIDカードなど返却ということで、現実的にはこれが最後の日となる。

4月に新しい大学に移ると言っても、同じ地区で引っ越しも必要ないので、同僚とも会おうと思えば簡単に会えるわけだし、何よりもさよならを言うのが苦手なので、いつも通り振る舞っていたけれど、周りからは何度も「今日で最後ですね」という感じで言われてしまい、それでやっと最後の日であることを実感した。確かに職場が離れてしまうといくら近いと言っても自然に疎遠になってしまうものだと思うけれど、同僚の外国人の先生たちとは本当に楽しい時間を過ごすことが出来たので、できれば時々コンタクトを取って親交を続けていきたいと思う。

結局1年半しか勤務しなかったので、自分のゼミ生の卒業はないけれど、それでもこれまで授業を担当した学生が無事卒業する姿を見るのは嬉しいものだった。卒業証書授与で知っている名前が呼ばれるたびに、思わず中央の表彰台に目がいった。もし4年間何度も授業で会い、ゼミを担当した学生がいれば、さらに感慨深い場となることは容易に想像できる。次の大学では、ぜひそのような時をたくさん迎えられたらと思う。

帰り際に、2年生の学生が2人近づいてきた。「先生、辞めちゃうんですか?」と言うので、「うん、4月から別の大学に行くことになったよ」と言うと「次もライティングは先生が良かったので残念です」と言ってくれた。1年半前初めて授業をやったときは、初めての経験で、なかなか思うようにいかず、毎回本当に苦労して授業をやってきて、それは今でも変わらないけれど、ほんの少しでも「良かった」と言ってくれる学生がいることが本当に嬉しかった。

一年半、振り返ってみると、同僚、先輩の先生、事務の人たち、そして担当した学生と、たくさんの嬉しい出会いがあった。いろいろ苦労もあったけれど、そのおかげですべてがただただすてきな思い出になった。一日が終わって、こんなに良い人たちに巡り会えて、なんでまた違うところに移るのかちょっと不思議な気持ちになった。4月からの新しい環境でも、様々な出会いを大切にすることができれば、またきっと楽しい時間が過ごせるだろうと思う。

研究室引っ越し完了

この3週間ほど、風邪をひき、一度治ったかと思うとぶり返したりで、なかなか集中して仕事ができなかった。なかなか完治しないので、もうずっとこんな状態じゃないかと心配になってきたりしたけど、今週になってやっと体調が万全に近づいてきた。

昨日と一昨日で新しい研究室への引っ越しが完了。引っ越し代は出ないということだったので、車に乗せて2往復して、本、書類、コンピューターなどすべての荷物を運んだ。新しい研究室の広さは、これまでの半分から3分の1くらいだが、これはこれまでの研究室が不必要に広かったせいで、十分な広さだと思う。建物が新しくて気持ちが良いし、何よりも自分で部屋の温度調節ができるのがうれしい。(これまでは、冬は18度設定の上、集中管理で暖房が止められたりと、風邪をひいているときなどはたいへんだった。)

振り返ってみると、前の研究室はあまり長居をする気になれず、結果ほとんど研究らしきものをしなかった。授業の前後に授業の準備をするくらいで、あとは自宅の自分の部屋か、喫茶店で研究や論文を書いたりしていた。なので、この新しい研究室では、まずは研究のできる快適な環境を作っていきたい。

大学移動の手続き

かつ‐あい【割愛】
[名]スル
1 惜しいと思うものを、思いきって捨てたり、手放したりすること。「紙数の都合で―した作品も多い」
大辞泉より)

大学間を移動するには、「割愛」と呼ばれる大学界固有の(そして日本独特の)制度がある。会社間の転職であれば、現勤務先と新しい勤務先が連絡を取り合う、ということは通常ないだろうと思う。ところが、大学では、新しく勤務予定の大学の責任者(例えば、学部長)が現勤務先の責任者(例えば、学部長や学長)に、「割愛願」というものを出す。それに対して、現勤務校側が了承して初めて移動が可能になる。今では、この「割愛」という制度はかなり形骸化していて、通常了承されないということはないが、稀に何らかの理由で許可が降りない、ということもあるらしい。その場合は、辞表を出して辞任した上で、新しい勤務先に移ることになる。

それでは、正式なステップを経て(つまり割愛を了承されて)移動をするのと、辞任をして(つまり割愛が了承されないで)移動することに違いがあるのだろうか?

この点については、ずっと違いはないだろうと思い込んでいた。ところが、先日、先輩の先生とこの割愛のことに話がおよんだ。「無事、割愛がおりて良かったですね」と言われ、「でも、割愛がおりなければ、自分から辞めればいいんですよね?」と言うと、おそらくその場合は新しい勤務先での契約形態が変わってくる可能性がある、ということだった。つまり、給与などに影響が出る可能性がある。そんなことは全く知らなかったので、今回の移動に関してスムーズに行ったことにほっとした。

では、どうしてそのような違いが生まれるのだろうか?

これは個人的な想像だけれど、辞任することで、「一度大学のサークル外に出てしまう」(もちろん比喩的な意味で)からではないかと思う。つまり、大学人にとっては、どこの大学に属しているか、ということ以上に、大学の世界の中にいるかどうか、ということがより大事になる。「割愛」という正式なステップを踏めば、それは大学の世界内での手続きと見なされるが、一度辞めてしまうと、実質的に空白期間があるかどうかとは関係なく、大学サークルの外から入ってくる者、とみなされるのではないだろうか。

そう言えば、大学の就職活動を始める前、先生から「とにかくどこでもいいからまず「大学」と名のつくところに入ることが大切です。一旦、入ってしまえば、結構動きますから」と言われたことを思い出す。例えば、実家が東京で、大学も東京であれば、東京の大学に就職したい、ということになるだろうが、最初の就職では、東京以外でも、どんな辺境地でも採用されれば迷わずに行くべきということなのだ。一旦大学サークルに入ることで、次には希望の大学に移れる可能性が、大学で働いていない状態よりも格段に増す。

野球選手なら、巨人に行きたくても、指名された球団にまず入る。そうすることで、将来、巨人に行ける可能性が高まる。まずは「野球界に入る」ということが何よりも大事なのだ。そう言えば、野球のように、大学の移動にも「移籍」という言葉を使う。最初は、なんか大げさな気がしたが、そのシステムの類似性に考えが及んで、妙に納得した。

どんな世界でも、その世界特有のルールがある。そういった所謂unwritten rulesは、その言葉どおりどこにも書かれていないし、はっきりと教えられることもない。こうした経験を通して、いろいろ想像しながら、少しづつ理解していくのだろう。結局、こういうことをどれくらい理解しているか、ということもサークルの内と外を分けるのだろうか。好き、嫌いはともかく、大事なことではあるだろう。

一年半を振り返る

イギリスから帰国し、日本の大学に勤務を始めてから早1年半が経過した。4月から新しい大学に移るということで、この数日間は、改めて「イギリス後」の時間を振り返っていろいろなことを考えている。

イギリスから帰国して最初の半年は、日本とは言え、それまで足も踏み入れたこともない土地に住み始め、毎日大学での慣れない授業があり余裕のない毎日だった。そんな中でも、何よりも博士論文を書き上げなければならない、という明確な目標が日々の生活に緊張感をもたせてくれた。授業に関しては、なかなか思うように行かないところもありながら、大過なくこなすことができ、論文の方も、大学に行く前の朝早くに時間を作ることで、なんとか書き上げることができた。

去年の3月に無事vivaが終わり、ここ数年の大目標であった博士号を取ったところで、次の目標を失ってしまったような気がする。厳密には、その後も、PhDの研究を論文として発表すること、そして新しい研究を始めるという「次なるステップ」ははっきりと存在していたし、意識もしていた。ただ、その目標には「具体的なデッドラインがない」というところが問題だった。

振り返れば、PhDのときには「3年」という明確な期限が存在していた。約束された奨学金はPhDの最短取得期限の3年と決まっていたから、それ以上フルタイムの学生としてだらだらと研究を続けるという選択肢は最初からなかった。でもそのことが良い緊張感、集中力を生んでいたと思う。

それがPhDを取ったとたん、次の研究を仕上げるプレッシャーが完全になくなってしまったことで、研究を進めていく動力を失ってしまった。残念ながら、締切がない中研究を進めていけるような強い精神力は持ち合わせていないことはよくわかった。

そんな感じで、研究に関してはほとんど進展がなかったこの1年は、自分にとってどのような意味があるのだろうか?

改めて振り返ってみて、(車の運転以外に)もし何らかなの進歩があったとすれば、「授業力」以外にないのではないかと思う。自分の今の授業について満足しているというのではない。(おそらく受講した学生も満足していないだろう。)それでも、少しづつ(本当に少しづつ)ながら、自分の理想とする授業に近づいているような実感はある。

もともと、どうすれば日本の環境の中で「第2言語習得につながる授業」が実現できるか、ということが研究テーマである。ただ、自分が実際に経験し、できるようになる前に、まず研究をして博士論文を書いてしまった、というところに問題がある。その意味ではこの1年は、「実践」をなんとか「理論」に近づけようとした時間だったのではないだろうか。

確かに「研究」の具体的な進展はなかったけれども、「実践」を通して、より「理論」も理解できるようになったような気もする。「実践」から「理論」にフィードバックすることで初めて、「理論」に欠けていたことに理解が及ぶ。そのプロセスを通じて、理論に対する更なる理解が深まっていく。

そもそも、どちらか一方に偏ることは精神衛生上も良くない。日常である授業がおろそかになれば毎日落ち込むことになるし、研究をしなければ将来はない。「授業」か「研究」か?という二項対立ではなく、両方をバランス良く行っていくことが、今後の課題になる。