イギリス人の「怒り」と日本人の「不機嫌」
2003年6月27日(過去の日記)
1956年に初演されたジョン・オズボーンの『怒りをこめて振り返れ』(Look Back in Anger)によって、シェイクスピア劇以降続いてきたイギリス演劇の伝統は新しい時代に突入したと言われています。
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1950年代のイギリスというと、七つの海を支配した大英帝国の過去の栄光をひきずりながら、戦後の国際的な地位の低下と経済の低迷によって、自尊心を木っ端微塵に打ち砕かれた時代です。そうした国民全体に不満が鬱積していたというバックグラウンドの理解なしに、この「怒りの演劇」を正確に捉えることは出来ないでしょう。
しかしながら、ジミーの怒りとその根底にある自己に対する悩み苦しむ様は、単にこの時代に限ったことではなく、いつの時代にも普遍的な典型的若者像を示しているのも確かです。例えばシェイクスピア劇の翻訳で有名な小田島雄志氏は次のように述べています。
…今にして思えばジミーは別に目新しいことは言っていないかもしれない。だがジミーの台詞の内容ではなく、その根底にある姿勢に眼をむけるとき、…いつの時代でも若者が歩まねばならない自己認識の苦闘の道を示してくれたと評価して、まちがっていないのではないだろうか。」(『J.オズボーン』小田島雄志著、研究社)
すぐれた作品はその時代性とともに、ある種の普遍性も兼ね備えているのは間違いないでしょう。
戦後のイギリスに蔓延した若者の怒りと同様に、ある時代のある地域で広がったある特別な性向ということでは、日本の近代に蔓延した「不機嫌」を思い出します。
名著、『不機嫌の時代』(講談社)の中で山崎正和氏は「日本の社会そのものがこの時期に成長のひび割れを経験し、日本人の全体が自分の生きる場所と役割を見失はうとしてゐた」として、当時の多くの作家たち、夏目漱石や志賀直哉の中にある共通した「気分」つまり「不機嫌」があったと指摘します。
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つまり、「感情」を向けている対象が常に明確に意識できるのに対して(例えば、恋人に対する愛情や、ライバルに対する競争心など)、「気分」は一体誰に向かってのものなのかはっきりしません。身近な例を挙げれば、「今日はなんとなく勉強をやる気がしない」というのは一種の「気分」だと言えるかもしれません。「不機嫌な気分」というとき、それは根源的に一体誰に向かっているのか、家族なのか、自分自身か、それとも社会なのかが、その本人でさえ往々にして明確に理解してはいないのです。
問題は、1950年代のイギリスの若者の怒りが必ずしもその時代に限ったものではないように、近代の日本を覆った「不機嫌」もまたその時代の特殊性だと簡単には片付けられないことでしょう。
少し前にある新聞のインターネット版で、日本のスポーツ選手はどうして皆「不機嫌」になってしまったのだろう、という記事を見かけて、なるほどと思いました。中田もイチローも貴乃花も、ある時期からマスコミに対して笑顔を振りまくことがなくなってしまった。そしてその一方で、気のあう友人や自身のホームページなどでは饒舌なまでに自身の気持ちを語っている、そういった内容だったと思います。
そうしたスーパースターを挙げるまでもなく、自分の周り、そして自分自身を振り返ってみると、多分に今の時代に共通したある「気分」があるようにも思えてきます。程度の差こそあれ、不満な表情を浮かべて歩いている、なんだかよくわからないけど慢性的に気分が悪い状態がなんと多いことでしょう。それを仮に「不機嫌」と呼べば、それもまた日本の近代を越えて現代にも蔓延している普遍的な姿だと言えるのかもしれません。その再び訪れた「不機嫌な時代」の根本的な原因を探ることと、そしてそれをどうやって克服していくか、非常に重要なことのように感じます。